帆を張るやうに胸を張れ

人間の発毛のシステムと言ふ物は、髪は女性ホルモン、体毛と髭は男性ホルモンが関与してゐるさうだ。
俺の父親は７５歳現在、殆ど白髪ではあるけれど禿げてはゐない。処が俺の祖父と曾祖父は見事な禿頭だ。禿は隔世遺伝らしいので、いづれ俺も彼等の孫、曾孫である事を、身を持つて証明する事になるだらう。

初めて髭を剃つたのはいつの事だつたか。
俺は髭も含めて体毛は濃い方ではない。脇毛も陰毛も多くないし、胸毛も無い。確か中学の三年生くらゐから鼻の下の産毛が濃くなり始め、だからと言つて剃刀を当てる程ではないやうな気がして迷つてゐると、ある朝洗面所で父親に声を掛けられた。

「だいぶ見苦しくなつたな。俺の剃刀を使ひなさい。」

あの一瞬、体を満たした感情を何と呼んだら良いのか、俺は未だに知らない。
恥ずかしさと誇らしさと緊張とを以て、俺は父親から愛用の剃刀を借り受けた。

父親とは今でも滅多に口を訊かないので、彼と交はした会話は殊更印象に残つてゐるのだけれど、あの時父親が何を思つてゐたのか、いつか聞いてみたいと思ふ。